甲子園球場 戦時中は飛行場?射撃訓練場やいも畑に利用されたのはホント?

      2019/08/12

高校球児の夏の祭典。甲子園球場では 全国高等学校野球選手権大会の真っ最中!毎日熱闘が繰り広げられていますね。毎年この時期を楽しみにしているファンも多いんじゃないでしょうか?今では純粋に高校球児の全力プレーを応援できる甲子園球場ですが、過去の悲しい戦争の時代にはどんな状況だったのでしょうか?もうすぐ終戦記念日です。甲子園の戦時中について調べてみました。

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甲子園球場は戦時中、飛行場だったのか?

検索すると“甲子園球場” “戦時中” “飛行場”というワードがヒットします。多くの方々が気になっているという事ですね。ですが結論から言うと甲子園球場は戦時中、飛行場ではありませんでした。その当時、甲子園付近に存在したのは鳴尾飛行場です。しかし鳴尾飛行場は甲子園球場から約1Kmほど南下した現在の武庫川女子大付近にありました。

引用:https://airfield-search2.blog.so-net.ne.jp/naruo--airfield

鳴尾飛行場は帝国海軍の航空基地で川西航空機鳴尾製作所に隣接していた軍用飛行場でした。X型の交差滑走路が特徴的です。同製作所が製作した戦闘機「紫電」の試験飛行が行われたり、海軍航空隊の三三二空が基地として使用していました。甲子園球場には川西航空機製作所の倉庫があったんですね。

甲子園球場は巨大軍事施設に!

それでは甲子園球場は戦時中どうなっていたのかというと、日本軍に接収されて巨大軍事施設となっていました。内野はいも畑、外野は軍用トラックの駐車場、スタンドはバックネットから一塁側あたりは普通海兵養成所、一塁側アルプスは川西航空機の倉庫陸軍輸送隊、三塁側は日本造機工場、三塁側アルプスは対潜音響研究所、ライトスタンドは阪神青年学校、レフトスタンドは興亜ベアリングの工場として利用されていたんですね。

 

甲子園球場 戦時中

 

今の姿からはなかなかイメージできませんけど、高校球児の聖地が軍事拠点に利用されていたというのは複雑な気がしますね。

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射撃訓練場はあったの?

検索キーワードには “射撃訓練場”もでてきます。甲子園に射撃訓練場があったという記述は見つからないんですが、普通海兵養成所や陸軍輸送隊の施設の中には射撃訓練ができるような場所があったかもしれませんね。

弾痕の残った鉄扉が2007年に撤去されるまで関係者入り口で使用されていたそうですから、ほんの10年前まで戦争の爪痕が残っていたんですね。

終戦後、1年たった1945年、甲子園球場はGHQ接収されてアメリカ軍が野球やソフトボール、アメリカンフットボールのグランウンドとして1年ほど使用したあと、1947年には接収がとかれ春の選抜が開催されました。甲子園に再び高校球児が戻って数々の名試合が行われるようになりました。

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